2019年5月1日

九鬼の海 志摩 ④答志島の九鬼嘉隆首塚

志摩2泊旅行の最終日(3日目)。
両親は鳥羽水族館へ、橙は別行動をとって九鬼氏の史跡巡りをすることになりました(平成31年3月下旬、三重県鳥羽市)。

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(写真は、答志島・築上岬の山上にある九鬼嘉隆の首塚)
「いじか荘」の送迎バスで鳥羽駅と鳥羽水族館まで送っていただき、それぞれの行程がスタート。
橙は、鳥羽駅直結のビル(鳥羽一番街)内にある「鳥羽一番旅コンシェルジュ」に荷物を預け(1点200円)※、徒歩すぐの佐田浜港から鳥羽市営定期船に乗船しました。
※ 鳥羽駅のコインロッカーは混雑していますし、且つこちらの方が安いので、利用価値は高いと思います。

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15分の船旅で、答志島の和具港に到着(片道運賃540円)。

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答志島は九鬼嘉隆終焉の地
第二次木津川口の戦いで大型鉄甲船6隻を率いて毛利水軍を撃破し、その後も織豊政権の水軍(海賊)大名として活躍した九鬼嘉隆は、関ヶ原の戦いで西軍に与します。
他方、子の守隆は東軍へ。真田家同様、親子が東西両軍に別れました。

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嘉隆は、城主(守隆)不在の鳥羽城を奪取し、奪還のため駆けつけた守隆との海戦に空鉄砲で応じるなどしていましたが、関ヶ原本戦での西軍の敗報が伝わると、城を出て答志島に退きます。
守隆は、家康から嘉隆助命の約束を取り付けますが、助命の使者が着く前に嘉隆は自刃していました……
父を救えなかった守隆は、さぞ無念だったでしょう(後日、嘉隆に自刃を勧めた家臣を誅殺しています。)。

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自刃した嘉隆の内心は図りかねますが、少なくとも、戦国の世を海賊大名として思う存分に生きた人物だと思います。
九鬼嘉隆の首塚は、和具港から徒歩15分ほど、鳥羽の町を望むことができる築上岬の山上にあります※。
※ そのため、和具港からの距離は近いのですが、軽い登山となります。道標は完備されているので、迷うことはありません。

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海賊大名の首塚にふさわしい絶景の地です(冒頭の写真)。
首塚には、まだ新しい献花が供えられていました。
岬から別の道を下ると、嘉隆が自刃した洞泉庵跡があり、嘉隆の胴塚や、介錯に使用した刀を洗ったという血洗い池などが遺されています。

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守隆の東軍参加と嘉隆の自刃によって、九鬼家は存続することができました。
しかし、守隆の死後、跡継ぎ争いが発生し、九鬼家は摂津三田藩と丹波綾部藩の二家に分裂します。
いずれも海から遠く離れた内陸の地。
海賊大名としての九鬼家は、終わりを迎えたのです。
〔⑤鳥羽城跡と常安寺 へ続きます〕


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