2016年9月22日

山縣有朋記念館 元勲の終の棲家

長州閥の元勲・山縣有朋の道楽は、庭造りでした。
東京の「椿山荘」、京都の「無鄰菴」 及び小田原の「古稀庵」が、山縣有朋三名園と呼ばれています。
彼は、大正11年(1922年)、小田原の「古稀庵」で亡くなりました。
山縣有朋記念館は、その「古稀庵」(※)の木造洋館を移築したものです(栃木県矢板市、入館料700円・コーヒー付、月休・年末年始休・1~2月は土日祝のみ開館)。
※ 小田原「古稀庵」の跡地は民間企業の所有となり、庭園は日曜のみ公開されています。ただ、往時の面影は少ないとの評判です。

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この地に「古稀庵」の洋館が移築されたのは、山縣の開いた山縣農場があったからです。
明治初期、那須野ヶ原の開拓が進められ、当時の華族は次々と農場経営に乗り出しました。
山縣も、遅ればせながらその流れに乗ったのですが、もはや那須野ヶ原にめぼしい土地はなかったため、その西南に位置するこの地に農場を開いたそうです。
山縣農場は、山林経営が主体だったので戦後の農地解放も乗り切ることができ、現在も子孫の方が経営されています(JTBパブリッシング「元勲・財閥の邸宅」p16~、公式パンフより)

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(写真は、記念館前の風景。現在も田野が広がっています。)
洋館は明治42年(1909年)の竣工で、設計者は築地本願寺を設計した伊東忠太。
当時としては最先端のアール・ヌーヴォー風デザイン(軽快な曲線美)が館内の随所に取り入れられています(館内は写真撮影禁止)。
特に印象的なのは、洋館の全てのドアに山縣有朋のイニシャル「A・Y」がデザインされていることです。

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(写真は、玄関ドア。上部の透かし彫りにも、下部の浮き彫りにも、デフォルメ化された「A・Y」がデザインされています。)
館内には、幕末維新期に遡る山縣の遺品や資料が数多く展示されており、歴史好きには堪りません(例:西南戦争時の西郷隆盛に宛てた手紙など)。
彼は短歌も嗜んでいました。お世辞にも上手とは言えませんが、戊辰の北越戦争・朝日山の戦い(新潟県小千谷市)で、親友・時山直八を喪った際に詠んだ次の歌は、秀作です。司馬遼太郎の「峠」にも紹介されていますね。
「あだ(敵)守る砦のかがり(篝)影ふけて 夏も身にしむ越の山風」


私事ながら、橙の父は会津の出身で、長州閥で北越戦争でも対峙した山縣はいわば仇敵です。ただ、この歌を目にするたび、彼にも死ぬほど苦労した時代があったんだな、と思うのです。

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〔旧青木家那須別邸 明治の森の白亜の洋館 へ続きます〕


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