2020年3月1日

夏の終わりの上田 ①上田城跡と赤松小三郎の墓

夏バテ気味なので、ぬるい温泉に浸かりたく、信州上田へ向かいました。
運転すら億劫なので、往復とも北陸新幹線の利用です(令和元年9月上旬)。
上田駅(※荷物はコインロッカーへ)から、まちなか循環バス「ぐるっと上田丸号」に乗車して上田城跡へ。
実に30数年ぶりの訪問です(長野県上田市、国史跡、日本100名城)。
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(「ぐるっと上田丸号」 真田の赤+六文銭のラッピングですw)
本丸正面入口。
東虎口櫓門(中央・平成6年復元)、南櫓(左)、北櫓(右、いずれも再移築現存)です。
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(南櫓)
本丸跡の真田神社前。真夏日に風鈴の音が涼しげでした。
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尼ヶ淵(現:芝生広場と駐車場)からの景観です(奥の櫓は南櫓)。
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同じく西櫓(左・現存)と南櫓(右)の揃い踏みです。
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上田城跡からは徒歩で、二度にわたる上田城攻防戦の激戦地・三の丸跡や、
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上田藩主居館跡(現:長野県立上田高校)に立ち寄りながら、
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月窓寺を訪れました(拝観自由)。
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(山門の鏝絵(こてえ)と本堂)
月窓寺には、幕末の上田藩が生んだ洋式兵学者・赤松小三郎の墓(遺髪塚)があります。
今回、どうしても参拝したかった場所です(合掌……)。
赤松小三郎とはなじみのない名前かも知れませんが、長崎海軍操練所に学び、「英国歩兵練法」などを翻訳し、幕末の京で薩摩藩士に洋式(英国式)兵学を教授していた人物です。
洋式兵学だけでなく、英国の普通選挙による議会制民主政(議院内閣制)についても精通し、(坂本龍馬以前に)これを最も優れた政体と主張した先駆者でした。
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彼は、慶応3年(1867年)9月3日の白昼、京で暗殺されます(享年37)。
下手人は中村半次郎(後の桐野利秋)ら薩摩藩士(少なくとも8名)。
当の半次郎本人が「京在日記」に記述しているので間違いありません(なお、「人斬り半次郎」こと中村半次郎が暗殺した唯一確実な人物が赤松小三郎です。)。
暗殺の動機は、上記「京在日記」に「幕奸」(幕府のスパイ)と記述されていることから、京から上田へ帰国することになった赤松に軍事機密漏洩の嫌疑をかけたもの、と推察されます。
それにしても、かつての兵学の師を問答無用で暗殺するところに、当時の京や薩摩藩の緊迫した政局、さらには中村半次郎という人間の本性を伺い知ることができます(赤松小三郎に関する記述は、井出孫六著「信州奇人考」所収『赤松小三郎の最期』等を参照しました。)。
近時は赤松の功績が再評価されているそうで、上田城跡公園(上田招魂社敷地内)には赤松小三郎記念館も開設されています。 ※訪問当時、橙はその存在を知らなかったので、訪れることができませんでした(T-T)
上田駅前まで戻り、「塩田屋」大もり蕎麦をいただいた後、コインロッカーから荷物を回収。

青木BT行の路線バスに乗車し、本日の宿へ向かいます。
〔②沓掛温泉「満山荘」 へ続きます〕

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