2017年9月2日

八丈島 流人と絶景と温泉の島 ①宇喜多秀家の墓

宿やレンタカーの予約をする際、「飛行機は予約済みですか?」と確認される場所……それが八丈島です(平成29年7月下旬、東京都八丈町)。
離島では何処も同じかもしれませんが、この確認事項の怖ろしさを、橙は思い知らされることになります。
八丈島は、流人と数々の絶景、そして温泉の島。
島への交通手段は、羽田空港から1日3便の飛行機(ANA、約50分)か、竹芝桟橋から1日1便の船(東海汽船、約10時間)。橙は、第2便の飛行機を予約し、宿とレンタカーも抑えて、2泊3日の旅程を立てていました。
ところが、羽田空港がまさかの駐車場渋滞(1時間待ち)。平日とはいえ、世間は夏休み中なのを失念していました。
冒頭の確認事項が思い出され、最悪旅行全体のキャンセルを覚悟しましたが、ANAに電話すると第3便(最終便)に空席があるとのことで、一安心……。後で、宿とレンタカー会社に顛末をお話ししたところ、同じような目に遭って、全てキャンセルした客が結構いる、とのことでした。
さて、前置きが長くなりましたが、八丈島空港に降り立つと、亜熱帯特有のムッとした空気に包まれます。
レンタカー会社の方が迎えに来てくれていましたが、時刻は既に17時。まだ明るいとはいえ、本日訪問できる場所は限られます。
そこで、宿へ行く途中にある宇喜多秀家の墓と住居跡を訪れました。

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宇喜多秀家は、豊臣五大老の一人で、関ヶ原の戦いでは西軍の主力として奮戦した大名です(備前岡山57万4000石)。西軍に与したのは、幼い頃から秀吉に可愛がられたためでしょう。妻は豪姫です(前田利家の娘で、秀吉の養女)。
敗戦後は、落武者狩りをくぐり抜け(※1)、薩摩の島津家に匿われましたが(※2)、島津家が家康と講和した際に引き渡され、1606年、ここ八丈島へ流罪となりました。八丈島の流人第1号と云われています。
1655年、83歳で没。当初の墓石は簡素な卒塔婆型の石でしたが(上の写真中央左側)、1841年に立派な五輪塔が建てられています(同右側。合掌)。
墓所のすぐ近くには、住居跡が残されています(民家の敷地奥にあります。)。

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秀家は約50年間、八丈島で流人生活を送りました。その間のエピソードは数える程しか伝わっていません。
20代後半で人生が暗転した秀家を思うとき、歴史の残酷さに戦慄します。
なお、八丈島歴史民俗資料館(最終日に訪問)には充実した流人コーナーがあり、秀家の専用コーナーも設けられています。拙ブログの記載も、そこで頂いたパンフレット「八丈島流人の祖 宇喜多秀家」を参考にさせて頂きました。
さて、本日から2泊お世話になる宿は、「八丈島プチホテル満天望」です。
ご主人は岐阜市内の旅館で板を張っておられた方とのことで、とにかく食事が佳かったです。誇張なく高級料亭レベル(ちなみに、初日の夕食は、地元の新鮮な刺身を含む和食会席でした。)。
その上、清潔で、接客もハイレベルなので、八丈島旅行全体の印象をグッと高めてくれました。

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※1 伊吹山中では落武者狩りの武士に発見されましたが、逆に匿われています。岐阜県揖斐川町白樫には、秀家を匿った武士=矢野家の敷地内に「宇喜多秀家公匿居の地」の碑が建てられています(既訪)。
※2 島津家は約2年半、秀家を鹿児島県垂水市牛根の平野家に匿いました。現地には「宇喜多秀家公潜居地」の標柱が建てられているそうです(未訪)。
〔②八丈富士と八丈小島 へ続きます〕


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