鳥取まで ②天狗党終焉の地・敦賀
鳥取往復ドライブの2日目(平成26年4月下旬)。
本日は、天狗党終焉の地・福井県敦賀市がメインです。
今庄宿に残る京藤甚五郎家(きょうとうじんごろうけ)です(福井県南越前町)。
雪中行軍を続けてきた天狗党が、ようやく人心地ついた宿です。
木ノ芽峠を越えた(※現在はトンネル通過可)所にある武田耕雲斎本陣跡(新保陣屋)です(敦賀市新保)。
ここで、天狗党は追討軍(諸藩)の兵に完全包囲されます。
また、追討軍の総指揮を一橋慶喜が執っていることを知り、進退窮まります。
ついに、彼らは、加賀藩・永原甚七郎の説得に応じ、同藩に投降しました。
加賀藩は、投降した天狗党員に同情的で、尊皇攘夷の志士として厚遇しました(写真は天狗党幹部を収容した本勝寺)。
ところが、天狗党員の身柄が幕府に引き渡され、若年寄・田沼玄蕃頭が到着すると、処遇は一変します。
田沼は、天狗党員を真冬の鰊倉に放り込んだのです。
厳寒の中、満足な食事も与えられず、病死者が続出しました。
田沼は、関東で天狗党に連戦連敗しているため(下妻戦争、那珂湊戦争)、その意趣返しが強く疑われます。
松原神社には、当時の鰊倉が保存されています。
なお、水戸市にも鰊倉が移築され「回天館」として保存公開されています(拙ブログ 義烈千秋紀行【水戸編】①弘道館)。
形ばかりの吟味の後、武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎以下、天狗党員は次々と斬首されました。
実に352名……(合掌)
(武田耕雲斎等の墓 国史跡)
彼らの死とともに、彼らを見殺しにした一橋慶喜の輿望(よぼう)も地に墜ちました。
斬首を免れ、生き残った者達もいました。
武田金次郎(耕雲斎の孫)らは、小浜藩に預けられ、待遇も順次改善されました(准藩士扱い)。
そして、王政復古後、同志達の復讐に狂奔することになります。
この日は、京都府宮津市まで車を走らせ、市内の「清輝楼」に泊。
温泉付の老舗旅館ですが、比較的リーズナブルに泊まることができます(素泊まり・一人泊可)。
夕食は、宿近くの「酒菜 禅」という割烹で、鳥貝など旬の魚介類を頂きました。
〔③石楠花の成相寺と丹後半島 へ続きます〕